横浜国立大学野球部と横浜金港クラブのつながりを読み解く

もう何年も前のことですが、当クラブで長年、副部長・世話役としてご尽力いただいた鳥山龍衛氏(故人)からいただいた書籍の一つに「横浜高工・横浜高商 定期野球戦史」という昭和43年の夏に発行されたA4サイズの見開き515pの大作があります(横浜野球倶楽部発行、非売品)。

実はしばらくの間は見ていなかったのですが、自主練が続いている状況下を利用し、拝読することにしました。するとなかなか面白いことが見えてきましたので今回、記録として残させていただきます(不完全な理解もあると思いますので事実と完全に合致しない部分はご容赦いただけますと幸いです)。また、定期戦史以外からの情報も補足として付け加えたいと思います。

高工と高商というのは学制改革前の専門学校のことで、高工は横浜高等工業学校、高商は横浜高等商業学校を指します。

高工は今の横浜国立大学工学部の母体に、

高商は同じく横浜国立大学経済学部の母体となった学校です。

同じ大学として一緒になる前は両校野球部の間で定期戦を行い、この定期戦がとても人気であったことから、「ハマの早慶戦」と言われていたそうです。見にいくことができないファンのためにラジオ放送(JOAK〜現在のNHK〜で全国放送)までされていたとのことで、実況アナウンサー曰く「本当の早慶戦と遜色ない試合内容だった」ようです。

以下、簡易的な年表形式で記すことと致します。

1920年(大正9年)横浜高工設立 *この年、横浜野球協会も設立されました(神奈川県内初の野球組織)

1923年(大正12年)関東大震災

1924年(大正13年)横浜高商設立

1925年(大正14年)第1回定期戦始まる

1927年(昭和2年)第1回都市対抗野球大会始まる

1929年(昭和4年)横浜公園野球場完成

1934年(昭和9年)米大リーグ選抜vs日本代表戦が横浜公園野球場でも行われる。Y専(現横浜市大)と横浜専門(現神奈川大)の定期戦も始まる

1942年(昭和17年)横浜金港クラブ初代オーナー・山口久像氏が、チームの前身とも言える、蚕糸クラブ監督として戦前最後の都市対抗大会本戦に出場

1943-1945年(昭和18-20年)定期戦中止(その他の野球大会も全て中止)

1945年(昭和20年)横浜公園野球場が接収され、ルー・ゲーリック球場となる(同じ頃、神宮球場も接収される)

1946年(昭和21年)横浜野球協会主催の試合が特別にゲーリック球場にて開催される。

第一試合は全高工vs全高商(「全」と付くのはメンバーを集めるためにOBも呼んだため)、第二試合は全高工・全商高連合軍vs横浜金港クラブ であった。このゲーリック球場では戦後初の都市対抗野球出場のため、横浜金港クラブの壮行試合も行われ、その時の対戦相手は春のリーグ戦で優勝したばかりの慶應大学であった。(久像氏が蚕糸クラブの選手らを中心にチームを再結成し、森鴎外が作詞した横浜市歌の言葉を引用して横浜金港クラブと称した。初代監督は法政大のリーグ戦初優勝の立役者である鈴木茂氏、メンバーは早大のエースだった若原正蔵氏などで構成されていた)

<参考>横浜市内国民学校(小学校のこと)調査結果 「あなたはどんな遊びが好きか」→ 男子児童の39%が「野球」と回答

上記をきっかけとしてこの年の9月、定期戦が復活

1947年(昭和22年)鳥山龍衛氏、高工野球部入部。この年7月、山口久像氏が私費を投じて中村球場を完成させ(今の横浜市立中村小学校あたり、木造スタンドに約3000人収容)、市内唯一の硬式球場としてあらゆる大会に利用された。また秋には久像氏が横浜野球協会第6代会長に就任(第5代は鳥山数衛氏〜龍衛氏の父上〜)。

1948年(昭和23年)6月3&4日 高工vs高商 最後の定期戦(第19回)場所はゲーリック球場 *日本映画社の(ニュース)撮影、NHKの(ラジオ)全国放送あり。

高工監督:茅野健一氏(高工卒、横浜金港クラブOB。元プロ野球〜西日本パイレーツ〜選手)

高商監督:南村不可止氏(早大卒、横浜金港クラブOB。元プロ野球〜西日本パイレーツ・読売ジャイアンツ〜選手)*のちに南村侑広に改名。かの有名な王貞治氏の前に読売ジャイアンツで背番号1を付けていた。当時、横浜金港クラブに選手として在籍しつつ、高商の監督でもあった。

 

冒頭の鳥山龍衛さん(あえて親しみと感謝を込めて「さん」づけで呼ばせていただきます)は最後の定期戦に2年生として7番サードで出場しておられ、卒業したのち22年間もの長きにわたり横浜国立大学野球部の監督を務められ(奥様談)、また神奈川大学野球連盟の理事、そして横浜金港クラブ副部長などを歴任されました。

 

以上、かいつまんでまとめてみましたが、小生が横浜金港クラブに入部したのち、横浜国立大学野球部さんとは年に数度のオープン戦などでお邪魔していました。しかし歴史を振り返るととても深いつながりであったのだと再認識いたしました。引き続き同部のますますのご発展を祈るとともに、当クラブもより一層の精進をしていかなくてはと感じた次第です。

 

監督 露木文吾

 

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