金港クラブの歴史

横浜金港クラブ史 70周年の歩み
年度 日本野球界 神奈川県野球界 クラブ史 山口久像氏
1871年(明治4年) 9月30日、横浜の外国人居留民とアメリカ軍艦「コロラド号」の乗員との間で野球の試合が行われる。球場は現在の横浜スタジアム。これが日本で行われた初めての野球になる。
1872年(明治5年) 来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(その後旧制第一高等学校、現在の東京大学)で教え、その後「打球おにごっこ」という名で全国的に広まった。
1874年(明治7年) 居留外国人のクリケットグラウンド着工
1877年(明治9年) 「横浜彼我公園」竣工(中央部にクリケットグラウンド)
1876年(明治10年) アメリカから帰国した平岡?(ひろし)が日本に野球を紹介し、わが国におけるベースボール普及の父とされている
1878年(明治11年) 平岡?らと新橋駅の鉄道関係者によって、新橋アスレチックスクラブ(初の社会人野球チーム)が結成
1882年(明治15年) 駒場農学校(後の帝国大学農科大学)が新橋倶楽部と日本初の対抗試合を実施。
1883年(明治16年) 東京英和学校(後の青山学院、1949年に大学に改称。)、波羅大学(後の明治学院、1949年に大学に改称。)、工部大学校(後に東大に合併)の野球部が創部
1988年(明治21年) 慶應義塾(後の慶應義塾大、大学部は1890年。)の野球部が創部。一中(後の第一高等学校)が野球部を創設
1989年(明治22年) 学習院(後の学習院大、1949年に改称。)、政法学校(後の同志社大、1912年改称。)の野球部が創部
1896年(明治29年) 旧制一高ベースボール部で、5月23日、横浜外人居留地運動場で横浜外人クラブと対戦し29対4で大勝。再戦を申し入れられ、第2戦も32-9の大差で横浜外人クラブを降した。 日本人の立ち入りが許されなかった「横浜彼我公園」にてYAC戦(旧制一高対横浜外人クラブ)を開催。全校で一高を応援したY校は、試合後一高ナインをグランドに招きアンパンによる祝勝パーティーを開催し、お礼にバット1本・ボール1個をY校に贈った。これが神奈川県下最古の歴史を誇るY校野球部誕生の機縁となる。
1897年(明治30年) 神奈川師範(通称:鎌倉師範、現横浜国大教育学部)に野球部を創設
1899年(明治32年) 10月10日 父常蔵、母シコの長男として山口久像氏、東京に出生
1901年(明治34年) 東京専門学校(後の早稲田大、1902年改称)の野球部が創部
1903年(明治36年) 第1回早慶戦開始(1906年に中止、1925年に六大学リーグ創設により復活)
1905年(明治38年) 早稲田大学野球部が日本の野球チームとしては初のアメリカ遠征を行った。なお、結果は26戦7勝19敗。 県立神奈川一中(通称:神中、横浜一中、現希望ヶ丘高)が県下で3番目に野球部を創設
1908年(明治41年) アメリカのプロ野球チーム(マイナーリーグ主体)来日
1909年(明治42年) 立教大学の野球部が創部 「横浜彼我公園」日本に返還され、横浜市は2万4千円の予算でクリケット上を廃止して野球場を新設。公園名を「横浜公園」と改称 山口家一家が横浜雲井町(現在の中区弥生町)に移住する。
1910年(明治43年) 明治大、東京高等農学校(後の東京農大、1911年に改称。)の野球部が創部 西区岡野町に移る。
1911年(明治44年) 東京朝日新聞が「野球と甚害毒」と題する野球批判のキャンペーンを展開。応援の過熱や教育上の見地からも野球批判が高まる。 Y校がアメリカ遠征前の早大との壮行試合で勝利。Y校黄金期を迎える。
1912年(明治45年) 宮ヶ谷小学校尋常科卒業、同校高等科へ進学
1914年(大正3年) 高等科終了
1915年(大正4年) 朝日新聞主催で8月に大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会(高校=旧制中学)が開催され京都二中が優勝
1916年(大正5年) この頃から景気の繁栄を受けて会社組織が続々とチーム(社会人野球チーム)を持つようになった 第2回全国中等学校野球大会京浜予選に神中(希望ヶ丘)、神奈川師範(横浜国大教育学部)が出場したが東京勢に敗退。神奈川師範は小野三千麿を擁し黄金時代を築く。小野は慶大、社会人で活躍し、都市対抗の発展に尽くしたため、「小野賞」として称えられている。 神中はアメリカ帰りの早大・飛田穂洲のコーチを受け、明治末期から大正初期の中心選手小岩井貞夫(元県議)や岡野健三、鳥山数衛らは早慶大に進んで活躍した。岡野・鳥山はのちに初代・五代目の横浜野球協会会長となり山口久像氏との親交を結ぶ。山口家と鳥山家は数衛の長女が久像の長男和宏と縁組するほどの仲となる。 本町商業補修学校本科卒業後、栗本豊治氏の紹介で三電舎に入社も、栗本氏の独立と同時に退社。その後、栗本氏が中心選手だった「港クラブ」で野球を楽しむ。
年度 日本野球界 神奈川県野球界 クラブ史 山口久像氏
1917年(大正6年) 第3回大会から県下中等野球最古のY校が出場。早実、水戸商、早稲田中を連破し決勝進出も前年全国制覇の慶応に完封負け。中等野球と人気を二分した横浜貿易新報(神奈川新聞社の前身)主催の県下野球大会がスタート。最盛期には百チームの加盟があった。
1919年(大正8年) 日本独自の軟式野球が開発。大衆に発展していく。
1920年(大正9年) 早稲田大学野球部OBらによって日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)、翌年には天勝野球団が創設されたが両球団とも関東大震災の震災被害により後に解散。同年全国実業団野球大会(社会人野球)がスタート、1926年(大正15年=昭和元年)まで毎年開催。 横浜野球協会が初代会長岡野健三氏とともに設立。神奈川県下最古の野球組織。 共栄社(電気設備工事業)創業。出入りする横浜電機(現在の東京電力)の野球部員と親しくなり、練習や試合に加わるようになり、東京電灯神奈川支店(横浜電機と東京電灯が合併、後の東京電力)の三塁手として活躍した。久像氏21歳のころ。
1923年(大正12年) 関東大震災 Y校が全国中等学校野球大会に県勢として初出場。鈴木茂を擁する横浜貿易省(後の本牧中)が7年連続代表となっていた強豪・慶応を撃破。関東大震災で横浜公園球場が倒壊。 鈴木茂はその後法政大学エースとし法政を初の東京六大学優勝へと導いた。卒業後は全横浜で都市対抗に出場。共栄社に就職し、金港クラブ初代監督を務める。
1924年(大正13年) 春からは名古屋市の山本球場で全国選抜中等学校野球選手権大会が開催され、翌年からは甲子園球場で行われた。夏季大会も阪神電車甲子園大運動場で開催。
1925年(大正14年) 東京六大学野球連盟発足、リーグ開幕 ハマの早慶戦が始まる。5月、横浜高商(現横浜国大工学部)が高工(現横浜国大経済学部)に初の対抗試合を挑み、10-10の日没引き分け。7月2日に再試合となり、これが第1回定期戦となる。
1926年(大正15年) 第2回定期戦も関東大震災で倒壊した公園球場に変わり新山下球場で開催され、観衆一万人余、試合後は応援団は伊勢佐木町に繰り出し「夜の定期戦」も次第にエスカレートしていく。
1926年(昭和元年) 明治神宮球場が落成
1927年(昭和2年) 全国実業団野球大会を発展的に解消し都市対抗野球大会として新たにスタート(社会人野球)。第1回大会は明治神宮球場でクラブチーム7、鉄道チーム5、遠来の大連満クが初優勝を飾った。横浜代表は選抜チームの全横浜で第8回大会まで連続出場を誇り、第5回大会で準優勝している。 横浜貿易新報の衰退とともに「貿易大会」が第10回大会でその歴史を閉じた。最後の優勝旗は最後の優勝チームである皐月クラブ員によって戦火を逃れ、現在は横浜スタジアムに保管されている。ハマの野球人に守られてきたことから「火伏せの旗」とも呼ばれる因縁の優勝旗として横浜の野球史にとって文化的な価値のあるものである。
1929年(昭和4年) 世界大恐慌 関東大震災の復興事業の一環として「横浜公園球場」が竣工。こけら落としの早慶新人戦にスタンド満員の15000人の観客を記録。高商と高工の第5回定期戦は三回戦制と1回戦制でもめ中止となる。 昭和の初めに蒔田クラブ(軟式野球)を結成し、オーナー兼監督兼選手として活躍。
1930年(昭和5年) J倶楽部の呼びかけで「紳士リーグ」がスタート
1931年(昭和6年) 高商対高工の定期戦が関係者や一般ファンの熱望により三回戦制で横浜公園球場にて復活。
1933年(昭和8年) 中等野球本大会準決勝で中京商が明石中に延長25回1-0で勝利、決勝は平安中を2-1で優勝、三連覇。 高商対高工の第7回定期戦をJOAK(現NHK)が初めてラジオ中継し、全国に流された。中等野球はY校、商工、浅野中(現浅野高)、神奈川三中(現緑ヶ丘高)らが活躍。
1934年(昭和9年) 読売新聞社の正力松太郎によって「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人軍、現在の読売ジャイアンツ)が設立 ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ率いる米大リーグオールスター来日。アマチュアは規則で対戦できず、プロ野球発足のきっかけとなる。第8戦横浜公園球場で4-21で日本大敗。横浜スタジアムスタンドにはメモリアル・レリーフがある。横浜専門(現神奈川大)とY専(現横浜市大)の両校もハマの早慶戦の向こうを張って定期戦を開始。
1935年(昭和10年) 「大阪野球倶楽部」(大阪タイガース、現在の阪神タイガース)が設立 神奈川工業が甲神静大会に出場し決勝で惜しくも甲府中に敗退し、甲子園初出場はならなかった。
1936年(昭和11年) 「大日本野球連盟名古屋協会」(名古屋軍、現在の中日ドラゴンズ)、「東京野球協会」(東京セネタース)、「名古屋野球倶楽部」(名古屋金鯱軍)、「大阪阪急野球協会」(阪急軍、現在のオリックス・バファローズ)、「大日本野球連盟東京協会」(大東京軍)が発足。これらの球団と巨人、大阪により、日本初のプロ野球リーグとして「日本職業野球連盟」設立。現在のようなペナントレース(公式戦)が始まる。 年度は不詳だが、山口久像氏が蒔田クラブの中核メンバー加納勇吉と兄弟のように親交があり、加納の父がオーナーである蚕糸クラブの監督に久像氏を起用した。当時硬式野球の社会人チームには、Jクラブ(神中OB)商友クラブ(Y校OB)皐月クラブ(本牧中OB)税関クラブ、蚕糸クラブなどがあった。
1939年(昭和14年) 横浜専門(現神奈川大)が高専野球全国大会を制する。
1942年(昭和17年) 山口久像氏が「横浜蚕糸クラブ」監督として初めて第16回都市対抗に出場。1回戦大同製鋼(大阪市)に6-10で敗退。 蚕糸クラブ(甲神静代表)監督として甲神静大会を勝ち抜き、青獅子旗を手に晴れて都市対抗野球大会(後楽園)へ出場。
年度 日本野球界 神奈川県野球界 クラブ史 山口久像氏
1943年(昭和18年) 戦争激化により、全てのスポーツ競技大会の中止・中断、連盟の一時解散を実施。東京六大学野球連盟解散、出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」 太平洋戦争のため、高商対高工の定期戦は中止に。通算成績は9勝7敗で高商がリード。全国優勝も高商5回に対し高工は1回。
1944年(昭和19年) 沢村栄治など多くのプロ野球選手が第二次世界大戦に動員される。
1945年(昭和20年) 戦後初の全早慶戦が神宮球場で開催 終戦で駐留軍に横浜公園球場を接収され、「ルー・ゲーリッグ球場」と命名。日本初の夜間照明灯が完成。
1946年(昭和21年) 戦争終了により、各地で連盟活動が再開。(プロ野球ペナントレース、東京六大学野球、東都大学野球、関西六大学野球などが再開。)全国中等学校野球連盟結成(全国高等学校野球連盟の母体)。日本学生野球協会設立。 神奈川県軟式野球連盟発足。初代会長は横浜野球協会会長の鳥山数衛氏。ハマの早慶戦が復活。 ★初代監督に鈴木茂氏が就任(任期2年)。早大エースの若原正蔵を筆頭に、加納勇吉、柿島利彦ら在浜の東京六大学のスターを集めて「金港クラブ」を結成。予選では名物酒場の「根岸屋」料亭「春日」などの異色チームもあり、若原擁する金港クラブと、「春日クラブ」にいた日本球界不世出の大打者であり大投手で慶応のスターだった宮武三郎との試合は開催されたY校グランドを整理しきれないほどの混乱となった。予選を勝ち抜いた金港は第17回都市対抗に出場。1回戦八幡製鉄(八幡市)に0-1で敗退。 社会人野球金港クラブを結成、以後24年まで横浜市代表として都市対抗へ出場。壮行試合は当時最強の慶応大学と、米軍当時局との懇意の付き合いをしていた山口久像氏の尽力でゲーリッグ球場にて開催された。
1947年(昭和22年) 神奈川県野球連盟を設立。会長は山口久像氏。日本で最初の女子野球「オール横浜第1回女子野球」が開催 ★第2代監督に若原正蔵氏が就任(任期9年)。第18回都市対抗に出場。前年同様に初戦で八幡製鉄(八幡市)に1-6で敗退。第2回スポニチ大会優勝。 共栄社を法人組織に改組、株式会社共栄社社長。神奈川県野球連盟会長。総工費100万円(現在の数億円に相当)の全額を引き受け、南区中村町に新興横浜球場を建設し、高校野球夏の大会や都市対抗予選も開催。
1948年(昭和23年) 日本プロ野球初の夜間試合(ナイトゲーム)が、ゲーリッグ球場(のちの横浜公園平和野球場)にて開催。カードは読売ジャイアンツ VS 中日ドラゴンズ。試合は3対2で中日の勝利。 学制改革でハマの早慶戦、高商対工高最終戦が開催。高商監督には金港クラブの南村不可止、工高監督には同じく金港クラブの茅野健一が就任し、高商が2連勝で幕を閉じた。また、学制改革で高校県代表として甲子園大会に1校出場できるようになった。 第19回都市対抗に早大出身者をずらりと並べて出場。初戦となった2回戦愛知産業(名古屋市)を3-2で勝利。準々決勝では星野組(別府市)と対戦し延長10回スクイズでサヨナラ負けした。
1949年(昭和24年) 日本社会人野球協会(日本野球連盟の母体)が創設 日本石油本社勤労課に勤務し、早大投手だった金港クラブの吉村英次郎氏が、日本石油社長に野球部創部を直訴し、1週間後には承認され創部の準備が進められていった。
甲子園野球育ての親である飛田穂洲をして「無欲の勝利」と言わしめた甲子園初出場の湘南高校が、大沢投手(元日本ハム監督)、佐々木信也(野球評論家)を擁し、逆転勝ちの連続で優勝候補筆頭の岐阜を5-3で破り、深紅の優勝旗を33年ぶりに箱根越えさせた。
第20回都市対抗に出場。南村不可止、柿島利彦、?川三隆ら早大勢で固め、大毎・阪急・近鉄の監督を歴任した西本幸雄氏が監督兼一塁手を務める前年準優勝の星野組(別府市)と再び1回戦で対戦。吉村・山本両投手が11安打と打ちこまれ、2-9で敗退。 創立3年目の神奈川県軟式野球連盟、伝統を持つ横浜野球協会の会長に就任し、県野球界のトップの座に就く。在職中の夢は①ゲーリッグ球場を米軍から取り戻し、プロ野球を呼べる球場の建て替え。②都市対抗野球で横浜から優勝チームを出す。③高校野球の夏の甲子園で県代表が優勝する。湘南高校が初出場で優勝し、③は早くも実現。
1950年(昭和25年) 日本野球連盟 (プロ野球)がセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂。各リーグ優勝チームによる選手権試合「日本選手権シリーズ」(1953年まで「日本ワールドシリーズ」と呼称、1954年から「日本シリーズ」の通称を使用)を開始。第1回日本シリーズ優勝に毎日(現在の千葉ロッテマリーンズ)。 日石CALTEX創部。県予選決勝で金港クラブに0-1で惜敗。県商工が19年ぶりに希望ヶ丘高を1-0で破り甲子園出場。 第21回都市対抗に出場。初戦となった2回戦で全鐘紡(大阪市)と対戦し、4-14と大敗。この年全鐘紡は優勝し、鐘紡時代の幕開けとなった。 神奈川県体育協会副会長になる。
1951年(昭和26年) 第1回プロ野球オールスターゲームがスタート。日本産業対抗野球大会(社会人野球)がスタート。都市対抗が地域対抗ならサンベツは産業別対抗として73年まで開催。補強選手は同業他社から。74年から日本選手権に変わる。 日本石油が第22回都市対抗に初出場。吉村英次郎氏は晴れて日本石油社員として初めて都市対抗に5番一塁手として出場し、途中からマウンドへ上がるも鐘淵化学(高砂町)に6-14で準々決勝で敗退。日本石油と日本鋼管の対決は「ハマの早慶戦」として人気を二分した。希望ヶ丘高が神中時代を通じて創部46年目の初優勝で甲子園に出場した。 金港クラブから日本石油へ、吉村・飛崎・茅野・緒方らが移籍し活躍
1952年(昭和27年) 平和条約締結とともに公園内の一部を除き、大部分が駐留軍の接収を解除され横浜市に返還。法政二校が初優勝、黄金時代を築く。4月川崎球場が開場。
1953年(昭和28年) 体育功労者として県知事から感謝状を受ける。
1954年(昭和29年) 佐々木信也(湘南~慶大~大毎オリオンズ)が180安打の新人選手の年間最多安打を記録し新人王獲得。
1955年(昭和30年) 球場改修に伴い、「ゲーリッグ球場」から「横浜公園平和球場」に改名。大洋球団が川崎に移転。
1956年(昭和31年) 都市対抗第27回大会にて慶大出の新人エース藤田元司など六大学野球の花形選手を続々採用し強化を図ってきた日本石油が、4度目の出場で初優勝を飾り、17年ぶりに黒獅子旗を東日本に持ち帰った。 ★第3代監督に佐野甚作氏が就任(任期5年)。 山口久像氏の②の夢が実現。悲願の黒獅子旗を手にした日本石油に山口久像氏も加わって、伊勢佐木町などをパレード更新、沿道は歓喜の紙吹雪で埋まった。黄綬褒章授章。
1957年(昭和32年) 南村侑広が巨人軍を引退 法政二高がこの年から5年連続で甲子園に出場。
1958年(昭和33年) 長嶋茂雄が巨人軍に入団し、新人王を獲得。 日本石油が2度目の都市対抗優勝
1959年(昭和34年) 初の天覧試合。王貞治が金港クラブ出身の南村侑広の引退で空いた背番号1をつけて巨人軍に入団。 神奈川県法人会連合会長となる。
年度 日本野球界 神奈川県野球界 クラブ史 山口久像氏
1960年(昭和35年) 早慶六連戦 三原監督率いる大洋ホエールズが日本シリーズで大毎オリオンズを4連破して初の日本一。法政二校が柴田投手を擁し、甲子園大会で全国制覇。
1961年(昭和36年) 日本石油が3度目の都市対抗優勝。法政二校が選抜大会で全国制覇し、夏春連覇達成。夏の甲子園は決勝で尾崎(プロゴルファー)擁する浪商に2-4で惜敗。 ★第4代監督に田村稔氏が就任(任期17年)。 神奈川県電業懇話会(のちの電業協会)理事長となる。神奈川文化賞受賞。
1962年(昭和37年) 王貞治の一本足打法が誕生。作新学院が史上初の春夏連覇を達成。 日本石油が佐々木投手(後に大洋)を擁し4度目の都市対抗優勝 神奈川県スポーツ振興審議会委員となる。
1963年(昭和38年) 横浜高校が創部16年目で初優勝し甲子園出場(準決勝敗退)。
1964年(昭和39年) 王貞治がシーズン55本塁打を放ち、現在もプロ野球記録となっている。 武相高校が初優勝し甲子園出場。以後5年間で4度の甲子園出場で黄金時代を築く。
1965年(昭和40年) 日本野球機構(プロ野球)主催の第1回新人選手選択会議(ドラフト会議)を実施。原貢(後の東海大相模高監督)率いる不況に沈む炭鉱の町の三池工業(福岡)が甲子園初出場、初優勝で話題をさらう。
1966年(昭和41年) 国税庁長官章授章。
1967年(昭和42年) 日本石油が平松投手(後に大洋)を擁し5度目の都市対抗優勝
1968年(昭和43年) 福井国体で天皇・皇后両陛下に軟式野球大会を説明。社会体育功労者として文部大臣から体育功労賞授章。
1969年(昭和44年) 東海大相模高が原貢監督を擁して横浜高を降し初優勝、甲子園出場。 平和球場再建の陳情書を横浜市に提出、以後横浜スタジアムの完成まで再建運動の中心となる。勲四等旭日小授賞。
1970年(昭和45年) 明治神宮鎮座50年を記念して行われた1970年(昭和45年)の奉納野球が同大会の始まりである。第3回までは大学野球のみであったが、第4回大会から高校野球も加わり、高校と大学の2つの部となり、現在に至っている。 横浜公園平和球場老朽化のためスタンド上半分を使用禁止し収容人員を半分に減らす。東海大相模高が甲子園出場し、県勢10年ぶり3度目の全国制覇。
1971年(昭和46年) 43年に県大会初出場の桐蔭学園高が土屋捕手(現監督)を擁し初優勝、前年の東海大相模高に続き甲子園では全国制覇を果たす。 株式会社テレビ神奈川取締役となる。
1972年(昭和47年) 日米大学野球選手権大会を開始、全日本選抜チームが出場 横浜平和球場再建推進協議会が186,000人の署名を集め球場再建陳述書を提出。秦野高校快進撃で秦野市内のUHFアンテナが品切れになる。
1973年(昭和48年) 巨人軍が日本シリーズ9連覇達成。 日本鋼管が都市対抗初優勝。春の選抜大会で横浜高が選抜大会で初の全国優勝。藤沢商業が田代(後に大洋)を擁して初優勝。
1974年(昭和49年) 長嶋茂雄が「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残し引退。 原辰徳の出現で空前の高校野球ブーム。この年から東海大相模は神奈川大会4連覇。 山口宏氏が東海大相模高に入学。 納税功労者として大蔵大臣表彰を受ける。
1976年(昭和51年) 日本鋼管が2度目の都市対抗優勝。西武・堤義明氏が球場再建にバックアップを表明。 山口久像氏の提案「1口250万円で40年間プロ野球公式戦が見られるオーナー席提供」の株主募集方法が支持を受け、20億円が調達され、市民球場発足へ本格化。横浜文化賞を贈られる。
1977年(昭和52年) 王貞治がハンク・アーロンの持つメジャー記録755本塁打を抜く756本塁打を放つ。 株式会社横浜スタジアム設立。新球場の工事着工。 山口宏氏が東海大相模高で主将として甲子園出場を果たす。 株式会社横浜スタジアム社長となる。
1978年(昭和53年) 江川卓が巨人軍に電撃入団(空白の1日)。高校時代ノーヒットノーラン9回、完全試合2回、大学時代はベストナイン6度の怪物がプロ入り。 我が国初の多目的スタジアムが横浜大洋対巨人でこけら落とし。日本プロ野球では21年ぶりのフランチャイズ新球場の誕生。東芝が都市対抗初優勝。 ★第5代監督に石田宏氏が就任(任期6年)。8月横浜スタジアムで開催された第3回全日本クラブ選手権大会初出場、初戦敗退。「横浜スタジアム落成記念アマチュア野球試合」が開催され、都市対抗出場時の金港クラブOBと、ハマの早慶戦として活躍した高商・工高OBが対戦。かつての横浜のライバルチーム日本石油対日本鋼管のオープン戦も開催された。 山口久像氏の①の夢が実現。横浜スタジアム開場の悲願10年を達成した、80年の人生で最も素晴らしい年となったが、同時に完成目前にして修正の相談相手としてきた加納勇吉に先立たれ、師走もおしつまった12月26日には長い闘病生活の末に最愛の妻を失った。公人としての栄光の陰で、深い悲しみに耐えての長い長い一年であった。日本商工会議所会頭表彰を受ける。
1979年(昭和54年) 古豪Y高が193cmジャンボ宮城投手(後にヤクルト)を擁し、愛甲投手(後にロッテ)擁する横浜高を決勝で降し、48年ぶりの優勝。甲子園では準優勝。 第4回全日本クラブ選手権大会に2度目の出場、初戦敗退。 神奈川県法人会連合会名誉会長となる。
1980年(昭和55年) 王貞治が30本塁打を打ちながら、「王貞治としてのバッティングができなくなった」と引退。 前年同様にY校・宮城、横浜・愛甲の投げ合いを制した横浜高が、初の甲子園大会も制し、46年以来の深紅の大優勝旗を横浜にもたらした。優勝パレードは新横浜~富岡まで、高校野球人気を窺わせる。 株式会社共栄社社長を長男和宏に譲り会長となる。
年度 日本野球界 神奈川県野球界 クラブ史 山口久像氏
1983年(昭和58年) 東芝が2度目の都市対抗優勝。山口久像氏の呼び掛けにより、社会人・大学・高校など12団体が加盟し、全国唯一の県単位の野球連合組織「神奈川県野球協議会」が誕生。 神奈川県野球協議会会長となる。
1984年(昭和59年) 日産自動車が都市対抗初優勝。 ★第6代監督に内田裕久氏が就任(任期11年)
1985年(昭和60年) KKコンビ(清原和博、桑田真澄)擁するPL学園が5季連続甲子園出場で夏の甲子園を制する。KKドラフト事件が大きな話題に。 横浜エフエム放送株式会社監事となる。
1986年(昭和61年) 日本石油が6度目の都市対抗優勝。 株式会社大洋球団取締役となる。
1987年(昭和62年) 山口久像氏米寿を祝い、10月10日に山口氏をモチーフとした「ベースを守った人」の胸像が横浜スタジアムの関係者入口の1階ロビーに贈られた。
1988年(昭和63年) 東芝が3度目の都市対抗優勝。 心不全のため横浜市中区山下町の警友病院で死去。葬儀は横浜スタジアム葬として、グランドの中央に祭壇を設け執り行われた。
1991年(平成3年) 全日本アマチュア野球王座決定戦が開始。全日本大学選手権王座と日本選手権王座が戦う事実上のアマチュア王座決定戦。時期的な問題で97年に廃止。 東芝が4度目の都市対抗優勝。
1992年(平成4年) 星稜高の松井秀喜が甲子園大会で5打席連続敬遠で敗退。
1993年(平成5年) 日本石油が7度目の都市対抗優勝。
1995年(平成7年) 野茂英雄がドジャースに入団。日本人メジャーのパイオニアとなる。 日本石油が8度目の都市対抗優勝。 ★第7代監督に今井文英氏が就任(任期3年※1997年は海外赴任のため馬場友行助監督が監督代行)。
1998年(平成10年) 横浜ベイスターズが38年ぶりの日本一に輝く。日産自動車が2度目の都市対抗優勝。春の選抜大会で松坂大輔投手を擁する横浜高が2度目の全国優勝。夏の甲子園も制し、春夏連覇達成。 ★第8代監督に頓宮従弘氏が就任(任期6年) 山口氏の最後の夢、横浜大洋の優勝は新生・横浜ベイスターズに受け継がれ悲願の日本一に輝いた。
2000年(平成12年) シドニー五輪で初めてプロ野球選手が出場するもメダルを逃す。 三菱自動車川崎が都市対抗初優勝。春の選抜大会で東海大相模高が初の全国優勝。 神奈川県クラブ対抗トーナメント大会優勝。
2001年(平成13年) イチローがメジャーリーグでMVPと新人王を受賞
2002年(平成14年) 世界大学野球選手権大会が開始 いすゞ自動車が都市対抗初優勝。
2003年(平成15年) 三菱ふそう川崎が2度目の都市対抗優勝。
2004年(平成16年) アテネ五輪でドリームチームを結成し、銅メダルを獲得。一場靖弘投手(明治大)をめぐる裏金問題でプロ野球が大混乱。
独立リーグ「四国アイランドリーグ」創設
★第9代監督に相沢卓司氏が就任(任期2年)。25年ぶり3度目の第29回全日本クラブ選手権大会に出場し、初戦敗退。
2005年(平成17年) 東北楽天ゴールデンイーグルスが様々な問題の中、50年ぶりの新球団誕生。 三菱ふそう川崎が3度目の都市対抗優勝。 2年連続4度目の第30回全日本クラブ選手権大会に出場しベスト8.さいたま市長杯優勝。びわこ大会準優勝。
2006年(平成18年) WBC第1回大会で日本が初代王者に輝く。早稲田実業の斎藤佑樹投手が駒大苫小牧の田中将大投手との再試合を制し、旋風を巻き起こす。
独立リーグ「北信越チャレンジベースボールリーグ」創設
春の選抜大会で横浜高が3度目の全国優勝。 ★第10代監督に中村忠裕氏が就任(任期5年)。2年連続さいたま市長杯優勝。
2007年(平成19年) 斎藤佑樹が早稲田大学に進学し、大学野球に注目が再び集まる。 東芝が5度目の都市対抗優勝。
2008年(平成20年) 北京五輪では韓国に敗退し、メダルを逃す。 日本石油が9度目の都市対抗優勝。
2009年(平成21年) WBC第2回大会で日本が連覇達成。
独立リーグがプロ野球として認定。「関西独立リーグ」創設
4年ぶり5度目の第34回全日本クラブ選手権大会に出場しベスト8.
2010年(平成22年) 野球が五輪の正式競技から外れる。
女子プロ野球リーグが復活
東芝が6度目の都市対抗優勝。 2年連続6度目の第35回全日本クラブ選手権大会に出場しベスト8.神奈川工科大杯優勝。
2011年(平成23年) プロ12球団の公式試合球が統一される 春の選抜大会で東海大相模高が2度目の全国優勝。 ★第11代監督に今井寿七郎氏が就任。3年連続7度目の第36回全日本クラブ選手権大会に出場しベスト4.2年連続神奈川工科大杯優勝。
2012年(平成24年) JX-ENEOSが10度目の都市対抗優勝 ★第12代監督に露木慎吾氏が就任。神奈川工科大杯優勝3連覇達成。
2013年(平成25年) 楽天・田中将大投手が負けなしの24勝0敗で楽天初の日本一に導く。長嶋茂雄・松井秀喜が国民栄誉賞受賞 JX-ENEOSが11度目の都市対抗優勝で2連覇達成 都市対抗西関東予選・第2代表決定戦で三菱重工横浜と死闘を繰り広げ、延長10回惜しくも3-4xサヨナラ敗退。神奈川工科大杯4連覇達成
2014年(平成26年) 侍ジャパンが常設化され、日米野球で初の4投手によるノーヒットノーランを達成。4勝2敗と勝ち越した。 関東クラブ選手権神奈川予選で3年ぶり3回目の優勝。中部謙吉杯初優勝。県内クラブ対戦成績10試合9勝1敗コールド勝利6回 第2代オーナー山口和宏氏が心不全のため自宅で急逝。山口宏氏が第3代オーナーに。
2015年(平成27年) セ・パ両リーグでトリプルスリー達成(セ:山田哲人、パ:柳田悠岐) 夏の甲子園で東海大相模高校が45年ぶり2度目の全国制覇。 春季大会・全日本クラブ選手権予選・関東クラブ選手権予選で県内1位。さいたま市長杯3度目の優勝。
2016年(平成28年)  菊沢竜佑が東京ヤクルトスワローズに6位指名    春季大会・全日本クラブ選手権予選・関東クラブ選手権予選で県内1位。足利市長杯初優勝、中部謙吉杯優勝、さいたま市長杯連覇、関東クラブ選手権準V。